イスラム世界の映画を集めた「イスラーム映画祭2」が1月14日から20日まで東京・ユーロスペース、21日から27日まで名古屋シネマテーク、3月25日から31日まで神戸・元町映画館で、それぞれ開催される。
上映されるのは、レバノン、チュニジア、エジプト、イラン、インド、パキスタン、バングラデシュ、タイなどで製作された、国際的な映画祭の受賞作品など秀作10作品。第1回映画祭は2015年12月に開催され、映画祭ホームページによると、「映画を通じ、日頃なじみの薄いイスラームの文化や、そこに生きる人々の姿を垣間見る絶好の機会として大きな反響を呼びました」としている。
「イスラム映画」と一口に言っても、舞台となっているのは、中東からインド大陸、アジアまで様々で、政治的状況も、社会的状況も異なる。欧米や日本の映画と異なる「イスラム映画」と呼べるような共通の要素があるのだろうか。あるとすれば、どのようなものなのだろうか。そんなことを考えながら、今回上映の10作品のうち次の6作品を見た。
・『私たちはどこに行くの?』(レバノン/フランス、エジプト、イタリア)
・『敷物と掛布』(エジプト)
・『バーバ・アジーズ』(チュニジア/ドイツ、フランス、イギリス)
・『ミスター&ミセス・アイヤル』(インド)
・『泥の鳥』(バングラデシュ/フランス)
・『改宗』(タイ)
宗教対立の異なる位置づけ
ほとんどの作品に共通するのは、映画で次々と起こる出来事を登場人物と共に体験するような不思議な臨場感である。6作見た中で、最後に全体を包んで完結する大きなストーリーがあったのは、イスラム教徒とキリスト教徒の抗争をテーマにしたレバノン映画『私たちはどこに行くの?』だけだった。
レバノンでは実際に宗教・宗派に分かれて、1975年から90年まで15年間の内戦を経験した。それだけに深刻なテーマであるが、村の女性たちが町からナイトクラブのショーダンサーを村に招いて、戦いにはやる男たちの気持ちをそらそうとするなどコメディータッチで進む。物語の展開も、フランス映画を見るように楽しむことができる。
映画にストーリーがあるのは、当然と思うかもしれない。しかし、ほかの5作品を見ると、ストーリーにこだわらない映画の世界となっている。
途中でヒンズー教徒とイスラム教徒の暴動が起こり、外出禁止令が出ている村でバスは数日足止めされる。イスラム教徒への報復のために、バスに入ってきたヒンズー教徒の暴徒に対して、ミナクシはラジャをヒンズー教徒の夫だと嘘をついて守る。二人は村を出ることができないまま、赤ん坊を連れた夫婦として村のホテルに泊まる。最初は警戒していたミナクシは次第にラジャにひかれるようになる。
同じく宗教対立を背景としていても、レバノン映画の『私たちはどこに行くの?』では登場人物の村人たちが宗教対立に関わることで、大きなストーリーが生まれるが、『ミスター&ミセス・アイヤル』の場合は、宗教対立は2人の男女の出会いの背景となるだけで、2人の間の心境や関係の微妙な変化が物語の中心となる。
『ミスター&ミセス・アイヤル』にはレバノン映画の『私たちはどこに行くの?』のように最後に大団円を迎える大きなストーリーはない。欧米の娯楽映画のように結末に向けてのドラマチックな展開を期待すれば裏切られるかもしれないが、逆に、登場人物の心のひだを探るような繊細さには日本人の感覚に通じるものがある。
同じく宗教対立を扱いながらも『ミスター&ミセス・アイヤル』と、『私たちはどこに行くの?』の違いは何だろうか。『私たちはどこに行くの?』には、女性たちには「宗教対立」を超えることができるという人間の主体性を感じる。監督がレバノンのマロン派キロスト教徒の女性で、アラブ世界でも欧州から強い影響を受けているレバノンで製作されたこともあり、「イスラム映画」とは言えないかもしれないとも思う。
『ミスター&ミセス・アイヤル』では宗教対立は登場人物が旅の途中で遭遇する様々な出来事の一つという位置づけである。男女の出会いもまたその一つである。その意味ではロード・ムービーである。
砂漠に迷い込む感覚
旅の途中で二人が出会う様々な人々の物語や、老人が孫娘に話して聞かせる、砂漠に消えた王子の不思議な物語が混ざり合いながら、次々とストーリーと場面が移り変わっていく。
道のない砂漠を、目の不自由な老人が道案内になって幼い孫娘に手を取られて歩いていく。娘が「道に迷ってしまう」と不安げにいうと、老人は「信仰がある者は、道に迷うことはない」と諭して、すたすたと進む。
そんな老人の跡をついてくる別の旅人も出てくる。映画では全体を束ねるストーリーがないため、老人と娘が出会う一つ一つのシーンは、自由で、何にも縛られず、次がどのような展開になるか想像もできない。観客としては、老人と娘と共に砂漠に迷い込むという感覚である。
この映画でも、場所の移動と、新たな人々や状況との出会いが、夫婦のストーリーをつくっており、映画は「ロード・ドキュメンタリー」と紹介されている。思い通りにならない夫との関係でもがき、苦しむ妻の姿は、どのような国の夫婦にもある葛藤が、イスラムの改宗という形をとることでより具体的に見えてくる。
『改宗』はドキュメンタリーであるから、イスラム教に改宗した妻にとっては、次々と新しい出来事が起こり、結末が分からないまま手探りするしかない。
結果がうまくいくのか、失敗するのかは、本人にも分からない。しかし、この映画を『ミスター&ミセス・アイヤル』とあわせて見ると、後者はフィクションなのに、先が見えない展開という点で、ドキュメンタリーに似たような現実感があることに気付く。
2011年のエジプト革命下という激動のカイロを舞台としたエジプト映画『敷物と掛布』は、混沌とした革命状況を味わうことができる不思議な映画である。
混沌とした革命状況を体験
エジプト革命では若者たちが強権体制に「ノー」を突き付ける大規模デモを始めた。革命の混乱の中で刑務所が襲撃され、多くの服役者が脱獄した。映画は、その時に脱獄した服役囚を主人公としている。主人公はデモをして拘束されたキリスト教徒の若者と共に脱獄したという設定である。若者は脱獄の際に銃撃され、「革命の映像」と家族への手紙を残して死ぬ。
映画では、主人公の会話はほとんどなく、意識的に物語の脈絡を隠すつくりとなっている。死んだ若者が残した映像は一部が出てくるだけではっきりとは分からず、家族にあてた手紙の内容も分からない。
大きなストーリーが見えないために、観客は主人公と共に状況を手探りすることになり、何が起こっているか、次に何が起こるかも分からない混沌とした革命状況を体験することになる。その意味では、この映画もまたロード・ムービー的なつくりともいえる。
人生はロード・ムービー
ロード・ムービーのつくりのイスラム世界の映画といえば、昨年(2016年)亡くなったイラン映画を代表する監督アッバス・キアロスタミの初期の傑作『友だちのうちはどこ?』やその後日談といえる『そして人生はつづく』を思い浮かべる。
『友だちのうちはどこ?』は学校で間違って友だちのノートを持ち帰った子供が、山向こうの友だちの家を探して道を聞きながら訪ねていくという設定だ。結局、友だちの家にたどり着くことはできないが、子供が途中で経験するさまざまな出会いこそ映画の肝である。『そして人生はつづく』は、『友だちのうちはどこ?』の舞台となった村が、大地震に見舞われ、映画監督が村を訪ねていくという設定で、村人たちとの印象的な出会いがドキュメンタリータッチで描かれる。
キアロスタミは『友だちのうちはどこ?』などの映画で、俳優ではない素人の子供たちや人々を使っていた。私は90年代初めにキアロスタミが初めて来日した時にインタビューをしたことがある。なぜ、素人を使うのか、と聞いた時に「素人は演じない。映画の中で生きるのだ」という返事が返ってきたのが記憶に残っている。
キアロスタミは人生そのものをロード・ムービーのようにとらえていたのかもしれない。大きなストーリーをつくる歯車ではなく、次々と出てくる場面や状況を、瞬間瞬間で生きる人間の姿でみせるのが「イスラム映画」の特徴かもしれない。
「イスラム的」な人間観
最後になったが、バングラデシュ映画の『泥の鳥』では、バングラデシュ独立戦争前夜、政治や社会が大きく動く時代を背景としながら、描かれるのは、ある家族の物語である。
厳格なイスラムを信奉する父親に言われて息子アヌは親元の村を離れ、寄宿制のイスラム学校「マドラサ」に入学する。映画ではマドラサの校長の理不尽な指導や、アヌの妹が病気になった時に西洋医学への不信から医者に診せることを拒否する父親など、厳格なイスラムが批判的に描かれる。
その一方で、マドラサの若い教師は柔軟な思考を持ち、校長の言動を批判する。父親も娘の死をきっかけとして、家族が病気になった隣人には町医者に行けと勧めるなど、心境の変化も出てくる。
「イスラム映画」とは決して宗教的な映画を指すものではないことは、この映画のイスラム主義的なものの描き方を見れば分かる。唐突ともいえる衝撃的な結末と合わせて、人間の悲しさや無力さ、愚かさを突き付けるような映画の在り方に「イスラム的」な人間観を感じる。
「信仰さえあれば、道に迷うことはない」
戦争や紛争が続く中東からアジアにいたるイスラム世界では、劇的なストーリーや材には事欠かない。なのに、「イスラム映画」の秀作は、ひたすら個人の生活や夫婦や親子、家族の在り方を描こうとしているように見える。脈絡のない荒々しい現実を前に、人間としての生き方を手探りしようとする。その根底にあるのは、バーバ・アジーズが言うように、果てしない砂漠にあっても「信仰さえあれば、道に迷うことはない」というイスラム教徒のゆるぎない現実感覚であろう。
イスラムの世界観は、神が一瞬ごとに世界を創造するという考え方である。「非連続的存在感」と呼ばれる。わたしたちや欧米人が当然と考える因果律は通用せず、歴史はそのつど神が決定する、脈絡のない、ばらばらな出来事の連鎖となる。そのような世界観の下では、映画監督が神の視点にたって、大きな物語をつくって登場人物を思い通りに動かすのではなく、監督自身が、登場人物と一緒になって「神のみぞ知る」気まぐれな運命の中で手探りし、映画の中のリアルを生きる案内人となる。
大きな物語に縛られないために、映画の中の個別のエピソードや出来事は、それぞれ独立して自由に展開する。場面場面で登場人物がどのように行動するかは、スリリングである。それを見る観客も、目の不自由な老人の道案内に身をゆだねるように、映画の世界に迷い込むしかないだろう。
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