<ネタバレ注意>         ※2012年12月12日、朝日新聞「中東マガジン」掲載

 エジプト映画「マイクロフォン」(2010年)を、中東出張からの帰路の飛行機の中で見た。私はこの映画が出来た年にエジプトにいたし、それもこの映画の舞台となったエジプトの地中海岸の都市アレクサンドリアに住んでいた。なのに、この映画について知らなかった。この映画を知らないまま、まる2年を過ごしてしまったことが、残念でならない。しかし、遅ればせながらではあるが、この映画に出会えたことがうれしい。

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エジプト映画「マイクロフォン」ポスター

 映画はアレクサンドリアでラップやロックなど欧米風のポップ音楽に傾倒する若者たちと、その若者たちを題材にドキュメンタリー映画を撮っている芸術学校の学生たちが登場する。映画自体がドキュメンタリータッチになっていて、若者たちの生活の一部を切り取り、つなぎ合わせたような自然さだ。会話もよく注意しないと聞き落としてしまうほど普段のまま。芝居がかった台詞回しが目立つ、多くのエジプト映画とはいかにも異なる。

 主人公のハーリドは、数年、ニューヨークでコンピューターエンジニアをした後、故郷のアレクサンドリアに戻ってきた。昔の恋人と再会し、海辺の同じ白いテーブルを挟んで会話する場面が、繰り返し出てくる。ハーリドは外国にいる間、恋人とは連絡もしなかったが、再会した後、ハーリドはもう一度、恋人の心を取り戻そうとする。

 しかし、今度は恋人の方がアレクサンドリアからの脱出を考えている。「みんなが楽しいと思っていることが、自分は楽しいと思えない」「アレクサンドリアは変わってしまった」「ここの生活は私にとってすでに終わっている」と語る。彼女は博士号をとるために英国に行くという。ハーリドは「博士号をとるのに何年かかるの?」と聞く。彼女は手のひらを開いてみせる。5年。ハーリドは、「ああ、そうなんだ」と、いうように笑う。再び、故郷に足場を見つけようとするハーリドと、故郷への疎外感を語る恋人。毎回、繰り返されるすれ違う二人の会話が、映画の基調になっている。

 映画で度々、登場するブルース調の歌がある。歌詞は「市長には息子がいる。息子は外国にいく。そりゃ、完璧な解決策だ。ニュースを読め」というもの。この映画では、若者たちの国からの「脱出」がひとつのテーマになっている。それがエジプト革命前に、若者たちに広がっていた空気だった。

 ハーリドは、地元の音楽家の講演やポスター製作などを手がける友人の企画会社を手伝い始め、アラビア語エジプト方言でラップをするグループと出会って、そのコンサートを設定しようと考える。

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「マイクロフォン」の1シーン

 ラップグループの若者たちの一人は、アレクサンドリアの港の魚市場で働いている。いかにも普通の若者という設定だ。私自身、アレクサンドリアで刺身が食べたくなったら、朝早く魚市場に行って、競りが終わったばかりの業者から、新鮮な鯛やスズキを買っていたので、映画で登場する魚市場はなじみがある。人々にとっても身近な場所だ。

 さらにエジプト人の若者が繰り出すアラビア語のラップがなんとも土地になじんでいて、ラップが米国のアフリカ系のポップ音楽だということを忘れるくらいだ。そのラップを聴いていると、エジプト革命でタハリール広場を埋めた若者たちが節をつけて、「ムバラク出て行け」と叫んでいた時に、なんてテンポのいい節回しなんだろう、と感じたことを思い出す。ただ「出て行け」というだけではなく、韻を踏みながら「ムバラクよ、今日、おまえが目を覚ましたら、最後の日だ(サッヒル・ノウム、アーヒル・ヨウム)」というような言葉遊びをつないでいく。

 このラップグループの若者たちが、政府の文化センターでコンサートをするためにディレクターに売り込みに行く場面がある。若者たちがディレクターの前でラップを歌い始めると、ディレクターは「待て、待て、何だ。これは。音楽を止めろ」と制止する。若者が「これは恋の歌であり・・・」と説明すると、ディレクターは「こんな荒っぽいのはだめだ。曲も詩も変えろ、もっと叙情的にやれ」と頭から受け付けない。

 主人公のハーリドはこのラップグループを気に入り、コンサートの場所を探すが、スポンサーも場所も見つからない。やっと、喫茶店がある路地にステージを組むことを考えて、設定を始める。すると、近くのモスクで礼拝をしていた男たちがやってきて、「何をするんだ。礼拝の邪魔になる。許可は取っているのか」と責め立てる。そこへ警察の車が通りかかり、警官が走ってきて、設定したマイクやスピーカーを排除しようとする。

 この場面は、エジプトですべての活動が警察の監視下に置かれている革命前の状況と、さらにアレクサンドリアを含めて、イスラム的な復古運動が広がっているということを示している。

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町を巡回している治安警察の車=「マイクロフォン」から

 エジプト革命で警察国家は崩れて、イスラム勢力が政治を主導するようになった。革命を経ても、路上でアップコンサートをすることは、イスラム勢力に妨害されるという状況は変わらないだろう。普通に考えるならば、「欧米的な世俗文化にあこがれる若者たち」と「伝統的なイスラム」との葛藤という構図でとらえられがちだ。私もこの映画を見なかったら、そのように図式的に考えていたと思う。

 しかし、この映画で、表現としてのアラビア語のラップの面白さや豊かさを実感したあとでは、ラップという表現も、単なる世俗的な欧米文化への傾倒ではなく、若者たちの自由な自己表現の新しいあり方ととらえることができる。それは日々の生活の中での思いや、社会への風刺や、政治主張も入ってくる。

 アレクサンドリアは、かつてこの地に住んだ英国人作家ロレンス・ダレルがこの町を舞台に小説「アレクサンドリア四重奏」を著したように、かつては外国との交流も盛んで、地中海に開かれた国際都市だった。エジプトの有名監督だった故ユーセフ・シャヒーン監督の故郷でもあり、この地で演劇を学ぶ若者を描いた「アレクサンドリア・WHY」の舞台となった。それが、いまではサラフィーと呼ばれるイスラム厳格派が強い影響力を持つイスラム的な伝統色の強い町になっている。

 シャヒーン監督は、強権体制による自由の抑圧に反抗し続け、同時にイスラム強硬派による文化の強制を批判した。そんな自由な精神を追求するシャヒーン監督の精神が、アレクサンドリアにまだ生きていることを、この映画は実感させてくれる。

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ハーリド・サイードの写真を掲げて抗議するデモ=「マイクロフォン」から

 映画は、エジプト革命の前年の2010年の製作であり、この映画ができた時には誰もムバラク政権が翌年倒れるとは予測していなかった。しかし、エジプト革命の始まりを予感させるシーンが、映画に出てくる。アレクサンドリアでは2010年春、「ハーリド・サイード」と言う名前の若者が、警官の暴行を受けて死んだ。その死に対する抗議が若者の間に広がった。この映画にも、ハーリド・サイードの写真を掲げて、若者たちのデモの場面が出てくる。どうも、実写のように見える。

 この抗議運動から、インターネットのフェイスブックサイト「クッリナ・ハーリド・サイード(我々はみんなハーリド・サイードだ)」が生まれ、50万人以上が閲覧する大サイトになった。2011年1月25日にエジプト革命のデモが始まった時、「通りに出よ」というメッセージは、このサイトを通じて、エジプトの若者たちに広がっていった。

 映画は芸術学校の若者たちを撮り、実に様々な若者たちが登場するが、その中にスプレー缶をつかって壁にイラストを描く若者たちも登場する。若者たちが壁に紙を押し当てて、スプレーを吹き付け、紙とはがすと、文字や絵が浮き上がる。はっとさせられるシーンがある。描いたアラビア語で「サウラ(革命)」の文字が画面で一瞬だが、はっきりと大写しになる。

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映画の1シーンとして浮かび上がったアラビア語の「サウラ(革命)」の文字=「マイクロフォン」から

 この映画が公開された2010年に、エジプト国内で革命が起こるような不穏な空気があったならば、画面に「革命」と出てくることは当局が決して許さなかっただろう。このシーンが出ているということは、当局も含めて誰も、「革命」を予測していなかったことを示す。しかし、「革命」という言葉が出ていることは、2010年に「革命」を求める意思が確かに存在したことの証明ともなっている。

 この「中東ウオッチ」のサイトで今年10月にとりあげた、エジプトのセクハラ問題をテーマにした映画「678」も2010年の製作だった。その映画について、セクハラという社会的悪にどのように対処するのかという問題意識から、政治や社会への関わりを探っていることを指摘し、そこにエジプト革命を前にした社会の空気を読むことができると書いた。その意味では、この「マイクロフォン」も同じような「革命前」の空気が出ていると感じる。長年の強権と腐敗と停滞の元で単に鬱屈しただけではなく、弾けることを求めて、未来を手探りしようとするような気分だ。

 2010年当時には翌年に若者たちが町に繰り出して、強権体制が崩れるとは気づかなかったが、この映画「マイクロフォン」や「678」という社会を描いた映画の秀作がつくられたことを知ると、社会の底流に、革命を準備する変化が生まれていたのではないか、と考える。なぜ、2011年春にエジプトの若者たちは、堰を切ったように街頭にくりだしたのだろう、と考え続けている私にとって、2011年の文化の動きは、俄然、重要性を増している。

 さらに、この映画が「革命前」の状況として描いているだけでなく、イスラム勢力の政治主導という「革命後」の状況に対しても、大きな問題提起をしている。 伝統的な価値観が強調されがちなイスラムを軸とした社会づくりは、若者たちが文化や伝統を超えて、自由を模索し、自分を表現しようとするエネルギーと両立できるのかという問題である。

 革命前のエジプトでは、若者たちのテーマは「脱出」だったと書いた。留学であれ、就職であれ、移住であれ、外国にでることである。2011年2月11日夕、若者たちによる18日間のデモによって、ムバラク大統領の辞任が発表され、カイロのタハリール広場は歓喜にわいた。「フッリーヤ(自由)」の言葉が弾けた。私はこれまでも記事に書いたが、その広場で、外国語科の大学生から「私はこれまで大学を卒業したら欧米にでることばかり考えていた。しかし、いま、初めてエジプトに残って、エジプトのために働きたいとおもっている」という言葉を聞いた。

 あれから2年近くが過ぎ、革命に参加したごく普通のエジプトの若者たちは、いまも革命の夢を保持しているだろうか。映画に登場したような、アレクサンドリアでラップをしていた若者グループは、革命後の日々を、将来の夢を、ラップに託して、より自由に、人々の前で披露できるようになっただろうか。

 革命後に、イスラム勢力と、革命継続を求める若者勢力は、二つの異なる政治的なベクトルとして、せめぎ合っている。エジプトのイスラム勢力が若者のエネルギーを抑えこんだり、一方的に支配したりするのではなく、社会を豊かにする力として若者たちと共存することができるならば、平均年齢24歳の若いエジプトは、新たな時代を開く大きな力を得ることができるのではないか、と想像する。