ニューズウィーク日本版のコラムで<映画『オマールの壁』が映すもの>という文章を2回に分けて書いた。人間ドラマとしての読み解きやパレスチナ問題との意味合いの解説である。しかし、映画を見終わって残る謎については、コラムでは書かないことにした。謎とは、なぜ、主人公のオマールはイスラエルの秘密警察のラミ捜査官を銃で撃ったのか、という結末にある。コラムは解説にとどめ、謎解きは私の個人ホームページで書くことにした。この謎解き部分は、ぜひ、映画を見てから読んでいただきたい。その方が映画の深さと面白さをより理解できると思う。
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この後、オマールはイスラエルのラミ捜査官に電話して、「犯人が分かったから、拳銃を用意してくれ」と頼み、ラミと落ち合う。オマールはラミから銃の撃ち方を教えてもらった後、「サルの捕り方を知っているか」とラミに言った後、ラミを撃つ。
私は講義をもっている東京都内の大学で、『オマールの壁』を取り上げて、自主講座として「映画を語る会」を開いた。ある学生が、「オマールがラミに銃をくれと言った時に、裏切ったアムジャドを撃つのだと思った。なぜ、ラミを撃ったのだろう」と疑問を語った。実は私も、オマールは拳銃でアムジャドを撃つのだろうと思った。しかし、ラミを撃つ前に「サルの捕り方を知っているか」とラミに問うのを聞いて、すべての場面がフラッシュ・バックし、最後の結末を理解するために、この映画では精緻な伏線が敷かれているのに気づいた。
「サルの捕り方を知っているか」という言葉が、謎を解くカギである。ニュースウィーク日本版<映画『オマールの壁』が映すもの>(2)で詳しく書いたが、「サルの捕り方」というのは、オマールがイスラエルの秘密警察に捕まって尋問を受ける前に、アムジャド、タレクの幼馴染の3人が集まった場で、アムジャドが披露した逸話である。
オマールはアムジャド、タレクと一緒に、夜イスラエルの陣地を攻撃するために行き、アムジャドがイスラエル兵を銃で殺害する。ラミは銃を撃ったのはタレクだと考え違いをしていた。さらにオマールとナディアが恋人同士だということも知っていることから、オマールはアムジャドがラミに情報を流していることに気付いた。そして、「サルの捕り方」の話も、ラミが話したことを、アムジャドが受け売りしたと考えたのである。つまり、オマールがラミを撃つ前に「サルの捕り方を知っているか」と言うのは、「アムジャドにサルの捕り方の話を離したのはお前だな」という念押しになる。
アムジャドの話を思い起こすと、サルに罠をかけて捕えるという話をした時に、タレクが「サルをとってどうするのか」と問う。それに対して、アムジャドは「スウェーデン行きの奨学金を与えるのだろう」と答える。私は、映画の中で、このアムジャドの答えを聞いて、サルはパレスチナ人のことだと思った。なぜなら、「奨学金をとってスウェーデンに行く」とは、イスラエルの占領からの脱出することを夢見るパレスチナ人の若者たちが最も望んでいることだからだ。しかし、このアムジャドがこの話をしたのは、映画のごく初めのころで、イスラエルの秘密警察が登場してパレスチナ人の若者を協力者に仕立てるという話の本題に入る前だったので、アムジャドの話だけでは、サルの話と秘密警察とは結びつけなかった。
しかし、オマールが最後の最後にラミに対して「サルの捕え方」の話を持ち出したことで、「サルの捕え方」という話は、イスラエルの秘密警察がパレスチナ人に砂糖を与えて、罠をかけ、生け捕りにするという話であり、パレスチナ人をスパイに仕立てる秘密警察の発想からの逸話だということが分かった。サルの話と秘密警察が最後に繋がる。
これだけでは、まだ決定的ではないが、「サルの捕り方を知っているか」という言葉が、オマールがラミに引導を渡す言葉となると考える理由は、「お前はアムジャドにサルの捕り方の話をしたな」という念押しだけでなく、「ナディアを妊娠させた、という嘘をアムジャドに吹き込んだのも、お前だな」というもう一つの念押しになるためである。
なぜなら、「ナディアには秘密がある」と言ったのはラミである。ラミはオマールに「スパイ」になることを求めて釈放する前に「秘密は秘密のままにしておくのがいい。お前が裏切れば、我々は彼女の秘密をばらす」とオマールに警告する。オマールはアムジャドの告白を聞いて、ラミが言ったナディアの秘密とは彼女の妊娠のことだと知らされる。しかし、ナディアが妊娠していなかったとすれば、ナディアには「秘密」はなかったのとになる。ラミはアムジャドに「ナディアの妊娠」という嘘を吹き込み、オマールに「ナディアの秘密」という罠を仕掛けたことになる。
オマールはアムジャドがナディアの「秘密」をラミに話したと考え、釈放された後、アムジャドにナイフを突きつけて、「ナディアについて何を話したのか」と詰問する。そこでアムジャドは「俺がナディアを妊娠させた」と「秘密」を明かした。それは嘘だったが、ラミから「ナディアの秘密」と吹き込まれていたオマールは、アムジャドの嘘を信じてしまう。もちろん、観客も、ナディアに「秘密」があると信じて、アムジャドの話を信じてしまう。オマールと同様に観客も騙されるのである。
ラミは秘密警察のパレスチナ担当の捜査官という仕事柄、パレスチナ人の心理やパレスチナ社会については知り尽くしている。ましてや、人生経験のないオマールやアムジャド、ナディアのような初心な若者を手玉にとるのは、苦もないことである。ラミはアムジャドがナディアに恋心を抱いていることを知り、オマールに「ナディアを妊娠させた」と嘘をつけば、オマールはナディアを守るために男気を出して身を引くと計算したのだろう。
イスラエルにとっては、仲間を裏切って情報を提供するアムジャドは真のスパイである。それにくらべて、オマールは強情で、拷問を受けても、アムジャドが銃を撃ったことを自白しない。オマールは自分を犠牲にしても仲間を守り、恋人を守ろうとする。ラミはそんなオマールの性格を逆手にとって、アムジャドをスパイに仕立てるために、ナディアとの結婚という彼の希望さえかなえさせる役として、オマールを利用したのである。
ニューズウィーク日本版のコラムで、「オマールの壁」でイスラエルの秘密警察のラミ捜査官に妻子がいることが分かる場面が出てくることには特別の意味があると書いた。ラミがオマールを尋問している場で、妻から携帯に電話がかかり、娘を幼稚園に迎えに行ってほしいと頼まれる。「いま、ヨルダン川西岸にいるから無理だ」と答えるが、その後、自分の母親に電話して、娘の幼稚園の迎えを母親に頼む。 パレスチナ映画ならば、無人格のキャラクターとして映画かれるはずのイスラエルの占領当局の捜査官に人間的な要素を付与しているのである。
これについて、アブ・アサド監督は、米国でのインタビューで、この捜査官を人間的に描きすぎだという批判がパレスチナ人の間からもあることを認めたうえで、「人間性がある方がより恐るべきことなのだ」と語っている。ラミには妻子がいて、イスラエルではよき夫、よき父親として生きている人間が、パレスチナ人の若者に残酷な罠をかけ、恋人の間を引き裂き、親友の間を裏切らせるように仕向けているのである。
なぜ、オマールがラミを撃ったのかという謎を解くことによって、「オマールの罠」で描かれるイスラエルの占領当局者の残酷さは、パレスチナ解放を実現しようとするパレスチナの政治を挫こうとするものではなく、パレスチナ人の人間性を挫こうとするものとして描かれていることが見えてくる。
この映画は、謎について、伏線だけを張って、読み取ることができるかどうかは、観客に任せている。読み取れなくでも構わない、という立場であろう。観客は、オマールと共にアムジャドに騙され、最後にオマールと共に衝撃を受け、アムジャドに怒りを覚える。ところが、オマールはその怒りをラミにぶつけるわけで、観客には割り切れないような奇妙な後味が残ることになる。観客がラミに共感を覚えるようなキャラクターづくりが行われているためである。本来なら自分を裏切った友人に報復すべきなのに、それをイスラエルの占領のせいとしてラミを殺害して恨みをはらしたという怒りに駆られた若者の行動という誤解を与えたままにもなりかねない。
パレスチナ人のアブ・アサド監督は、自爆テロやイスラエルによるパレスチナ占領など、米国では拒否反応を引き起こしかねないテーマや題材を商業映画、娯楽映画としてつくっている。イスラエルの占領に関わる謎が映画の中で明かされないという映画のつくりには、監督の巧妙な狙いと意図があるはずである。伏線を読み解くか、読み解かないかによって、ラミに人間性を付与した意味は、正反対となる。伏線を読み解かなければ、ラミは観客から共感を受け、同情される存在である。しかし、伏線を読み解けば、ラミはその人間的なキャラクターを与えられているために、人間性を裏切った全く別の顔が見えてくる。それは、監督が観客にしかけた罠かもしれない。(2016/05/13)
◇映画『オマールの壁』が映すもの(1)パレスチナのラブストーリーは日本人の物語でもある
http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2016/05/1_1.php
◇映画『オマールの壁』が映すもの(2)不毛な政治ではなく人間的な主題としてのパレスチナ問題
http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2016/05/2.php
※『オマールの壁』について、みなさんがどのように見たか、ぜひ、感想をコメントとして書いてください。
コメント
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最後の「猿」は、真犯人を聞き出すという「角砂糖」欲しさに銃を渡してしまったラミのことを皮肉って言ったんだと思いました。
そういう意味で、川上さんの言うような、パレスチナ映画で、猿でいる事を肯定する内容であるはずがないという点も異論ないと思いました。たしかにナディアの大学の夢の実現したり、アムジャドが解放されたりパレスチナ人が平和に暮らせたりという真のハッピーエンドには程遠いですが、オマールがそうであったように全員が角砂糖を握らされた猿というわけではないという意味で、猿である事を肯定しているわけでは決してないと思います。たしかに、このような環境でオマールが命を賭して叶えた幸せは、広い意味では川上さんの言うようにナディアは猿のままでいる枠を超えませんが、それは猿でいることを肯定したいからではなく、この状況の悲惨さを物語っているのだと思いました。
私がこれらの議論にさらに付け加えられるとすれば、ナディアがこれ以上悲しむ事はないという事です。アムジャドが死んだオマールに全ての罪をかぶせれば(死人に口なし)、オマールが全ての事実を抱えたまま死ぬ事でナディアやアムジャドへの新リーダーからの追及を避けることができると思います。
一方、なんらかの言質を取られているアムジャドが今後イスラエル側から脅迫され、その後も協力を求められ続けることはあるでしょう。しかし、秘密警察側はアムジャドを利用する為にもアムジャドがオマールを騙した事はナディアに伝えられないでしょう。よって、ナディアが深く悲しみ自己嫌悪に落ち込む事はないでしょう。ただ、アムジャドは今後も砂糖を握ったままの猿で居続けるのだと思います。
日本だってまたいつ特高がいばる時代が来るかもしれない。
ただ、ちょっと腑に落ちない点が・・・
アムジャドがしっかり取り込まれている状況で、なぜオマールを捕まえて拷問する必要があったのか。ユダではないが彼にタリクの居場所を教えさせればいいだけの話でしょう?
あと、ナディアに「妊娠しているのか」と確かめられなかったのが弱さ、という意見にはどうかな?と思います。もうラミに洗脳されたようなもので、あの罠から「そうではないかも、確かめなければ」という思考にはなれないと思います。それは、そういう目に合わない平和な日本人にはわからないでしょう。
さて、一方で、ナディアへ書かれた手紙の内容は最後まで分かりませんよね。
まずオマールにはナディアに手紙を書く必要があります。それは、①ナディアが持つ「愛するオマールをスパイだと疑ってしまい傷つけた」という罪悪感への慰撫、或いは②ナディアへの遺書のどちらか、それともその両方か。
その上で、その手紙でアムジャドの嘘を暴くべきかどうか…これは、同じ日本人ですら意見が分かれるのではないでしょうか?妻は夫の下劣な嘘を知る方が幸せか、知らない方が幸せか。だからこそ、監督はあのシーンの情報を削ったんじゃないでしょうか。だって、手紙の内容をどのようにしたって批判する人が出てくるわけですから。
あのシーンはそういう意図があったんじゃないかなーと、個人的には思いました。
それはそうとして、皆様の感想はすごく面白かったです。特にバクリのインタビューへのリンク!有難うございました!
自分ではここまでしか考えられなかったのですが、猿の捕らえ方のくだりの説明を見てすごく腑に落ちました。仲間を裏切らないやつが良い駒になってしまう現実が伝わってきます…
あとは、パレスチナ旅団のリーダーが後半部に出てきたのですが、いまいちその意味が分からなかったので、そこが疑問ですね。
多くの伏線や予想外の展開により終始惹きつけられ、一本の映画としては楽しむことができましたが、一方でラブストーリーに傾斜することでパレスチナ自治区という特異な環境を伝えるメッセージは弱まり、「パレスチナ人のスタッフのみにより、パレスチナ自治区内で、パレスチナの資本のみにより」この映画を製作した意味があったのだろうかとも感じました。この自治区が形成されるにいたる大国達のエゴ、2000年近い難民としての歴史を自ら体験していながら、ユダヤ人がイスラエルという国家としてパレスチナ難民を作り出す一因となる人間の歴史の悲哀。中東問題は一本の映画で語れるようなものでは決してありませんが、パレスチナ資本のみにより作られるからこそ踏み込める領域に、この映画にはもう一歩踏み込んで欲しかったです。
彼女(ナディア)も、スパイだったのでは?
考えすぎでしょうか?ここまで、疑心暗鬼にさせる映画って凄いですね。
でも、ナディアが手紙を読むシーン、ここがどうも腑に落ちません。
事実を知って、ここまで落ち着いていれるものなのでしょうか?
主人公(オマール)は、その全てを知って元凶(ラミまたは、イスラエル?)を絶ったのでは?
――作品は、衝撃的な結末を迎えます。どんな思いで演じましたか。
オマールはとても重大な決断をするのですが、それしか愛するナディアを救う方法はなかったのです。ナディアが大学に行って、子供たちと幸せに暮らせるようになるということで、オマールは幸せを感じるんだと解釈しました。
私はこれは自分の死を覚悟にラミを殺す決断としかと読めませんでした。
だから、ナディアへの愛のために引き金を引いたと。
この決断はナディアに真実を知らせる決断という解釈は無理でした。
ラミを殺すかどうかではない
それと、この映画のテーマは猿として生きるかとかではなく、愛とか信頼とかは、実は儚く、平和な国なら幸せに結ばれたろうに、、現在のパレスチナでは、そうならないと描くことだと思っています。
おそらく見解が一致することはないでしょうが、意見をうかがえてよかったです。
ありがとうございます。
細部を覚えていない上に、映像化もまだされていないので確実なことは言えませんが、その解釈だと、個人としてではなく、パレスチナのために最後に引き金を引いたということでしょうか?
監督は戦争映画ではなくラブストーリーだと明言してます、その解釈のラストだと戦争映画だということになると思います。
また、全てを知って裏切り者の夫と知りながらも暮らすことがナディアの幸せだというのなら、そこは私と感覚が違いすぎて、多分、意見の折り合いはつかないと思います。幸せというものに対する見解の違いなので。
どちらにせよ返信ありがとうございます。
<事実を知らずに、それなりに幸せに暮らしているナディアのために、その秘密を永久に葬りさることなんじゃないでしょうか。>というのは、違うでしょうね。
主演のアダム・バクリの言葉はこうです。
<オマールはとても重大な決断をするのですが、それしか愛するナディアを救う方法はなかったのです。ナディアが大学に行って、子供たちと幸せに暮らせるようになるということで、オマールは幸せを感じるんだと解釈しました。>
これはナディアに事実を知らせない、ということを言っているわけではありません。
オマールとの再会でナディアは「あなたをスパイだと疑っていた」と謝ります。その後で、オマールはナディアの話から彼女が妊娠していなかったことを知らされ、衝撃をうけますが、「私たちは信じられないことを信じていた」といい、ナディアに理由を告げずに謝ります。
私はこの映画を取り上げたニューズウィーク日本版のコラムの(上)で書いていますが、オマールの弱さは、恋人だったナディアがアムジャドの子供を妊娠しているかどうかを本人(ナディア)に確認せずに、彼女の幸せを願って、黙ってアムジャドと結婚させたことです。それは事実に向き合えない弱さを「男気」で隠すわけです。
最後にオマールは「事実」に向き合い、自分が猿ではないことを証明するために、すべてを仕組んだイスラエルの捜査官を殺害します。これは「個人的な怒り」ではなく、パレスチナ人を操り、生きる自由を奪っているイスラエルの占領からパレスチナ人を解放するためのオマールの戦いなのです。
その一方でオマールがナディアには「事実」を知らせないで「秘密を永久に葬り去る」としても、ナディアが幸せになるわけではありません。それではナディアは「猿」でいるほうが幸せだという話になり、映画のテーマと矛盾します。
(つづく)
妻は夫が兄を殺し、自分の愛を奪ったイスラエルのスパイだという「事実」を知らないまま幸せに暮らしました、で終わるパレスチナ映画はありえないでしょう。それがこの映画の結論であり、オマールの決断だとすれば、自分の弱さのゆえにスパイに仕立てられた「欺瞞」を肯定する映画になってしまいます。そんな結末は100%ありません。
オマールが言わなくても、アムジャドがスパイだということはいつか明らかになります。すでに過激派のリーダーが、ナディアの兄タレクの死についてアムジャドが怪しいとオマールに言いに来ています。これも一つの伏線。オマールはアムジャドに疑われていることを知らせようとして、アムジャドの家に行って、ナディアと会い、真実を知るわけです。
最後の場面で、オマールはナディアに手紙を書き、ナディアがそれを読む場面があります。オマールは伝えなければならないことがあるから手紙を書くのです。その手紙の中で、なぜ、自分がナディアを遠ざけたかという秘密をすべて明らかにしているはずです。
もし、オマールがナディアに真実を知らせないまま、アムジャドがスパイであることが明らかになり、スパイとして殺されることになれば、ナディアは救いのないことになります。バクリがいう愛するナディアを救う道とは、事実を明らかにするということしかないでしょう。
ナディアがアムジャドがスパイであり、さらにナディアの兄を殺したということを知って、結婚生活が続けられるとは思えません。現実はつらくとも、支配者に操られる「猿」として偽りの生活を続けるよりもよいと考えるしかありません。それが、この映画のテーマだと私は思います。アムジャドと別れても、バクリがいう「ナディアが大学に行って、子供たちと幸せに暮らせるようになる」ことが否定されるわけではありません。
というか、ラストについて主演の俳優が語っています。謎でもなんでもないです。
最後に引き金を引いたのも自分の怒りや復讐(ナディアを失ったオマールにはそんなものはどうでもいい)のためでなく、最後までナディアのために引き金を引いたから、監督もラブストーリーだと言ってるのでは?
私はオマールがラミを撃った理由をラミへの怒りだとは思いません。理由はナディアへの愛だと思っています。ナディアが自分を裏切ってなかったことを知り、何も知らないナディアのために、自分が出来ることを考えた上での行動なんじゃないかなと。
そして殺されるのがアムジャドでは映画は成り立たないでしょう、「馬鹿なパレスチナ人の仲間割れ」という映画になってしまい誰の共感も得られない。死ぬのがイスラエル人なのは政治的関係性故であってほとんどの観客にとって必然です、この映画はそこへ至る道を恋愛を使って観客に歩かせた。従ってこの映画は非常に政治的な映画ですね。
これは製作者がどう言っても変わらない事でしょう、なぜなら映画は公開されればその受け取りは観客に任されるから、製作者がどんなにこの映画は××ですと言ってもそれは通らない。「独裁者」「遠すぎた橋」がよい例です。
ですので最後にオマールがラミを撃ち殺したのも、そもそもの事の発端は壁の外にいるお前たちがじゃないか!という解釈で済ませていました。